綺麗な庭

わたしの救いの箱庭です。

最後に海を見た日2

簡単なことを忘れていて、息が詰まる。

寒い寒い夜明けの中、秘密の話をしよう。

水平線。群青。乱反射。

鏡のようにふたり手を合わせ、白い息を吐く。確かに僕は存在して、海を見ている。

歩こうか?潜ろうか?泳ごうか?溺れてみようか?

君となら、なんとか辿り着けそうだ。だから大丈夫、なにも心配しないで。

君の綺麗な肌、透けて向こうまで見えてしまいそう。不確か。虚像。

しっかり君の手を握ることにした。

 

最後に海を見た日。

絵画

あまり天気の良くない午前中、老婆はたくさんの花をリヤカーに積んで街へ降りる。遠くの山には日光が降り注いでいる。

途中で一羽のうさぎが囁いた。

「花を運び、幸せを買う。幸せを売り、幸せを買う。」

しばらく行くと、頭上の渡り鳥が言った。

「遠くへ行くのはいいことだ。世界と決別しよう。」

街が見えて来た頃、少年と出会った。

「いつか僕は幸せになるんだと思う。あの人もあの人も。きっと、絶対に。でもあなたは...。花を一輪くださいな。」

街へ降り、老婆は困惑した。老婆が運んで来た花は、どれも美しかった。

広場に面した店の前に、ブリキの人形が倒れている。

ちょうど太陽が空の真ん中に顔を出した。

街は祝福の光に綺麗に照らされ、花は生き方を思い出したように輝いた。

そよ風の中で老婆は気づいてしまった。

そのまま花のベッドの上に倒れこんだ。

さようなら。家に帰ったらスープを作ろうと思っていたのに。

交わる

輪郭が収束していく。

リビングルームの、天井と壁の間。

視線は一点を見つめている。

 淡白で、極めて三次元的な空間。

僕は何処へゆけば良いのだろうか。

狭い部屋をあてもなく彷徨う。

途方も無い砂漠。旅人と挨拶を交わす。

 

そうしている間に

僕の、誰かの、輪郭が収束していく。

ピアノに擬態する娼婦

ある娼婦の話。

艶やかな黒髪の彼女は娼館の窓から世界を見ていた。(海が近いが、見えやしない。)

彼女にとって娼婦でいることは、存在の確証であり、生きているということだった。

しかしあるとき彼女は、毎日毎日自分がすり減り、惨めになっていることに気づいた。窓の外はずっと美しいのに、鏡の中の自分は、何かが失われていた。旅行先で忘れ物をしたんじゃないかと心配になるのに似た感情。

おもむろに彼女は椅子だけを残して、部屋を空っぽにした。ベッドも、鏡台も、全てを締め出した。そのときすっかり彼女は真っ黒になっていた。美しいカラスのような、夜のような--。

 

その日から、彼女はピアノに擬態するようになった。

 

客が部屋に来ても、椅子に座り、そっぽを向いて煙草をふかすだけ。黒い服を、白い下着を纏って。

男が彼女を演奏しようとするが、残念ながら男には音楽の才能はなかった。

 

彼女はずっと、艶やかな黒髪のカーテンを垂らし、黒い服を着て、山ほどの煙草をふかしながら、窓の外を眺めている。ただ静かに、堂々と。いつまでも。

まるでそう、夜と愛を嘆くピアノのように、僕は見えた。