綺麗な庭

わたしの救いの箱庭です。

hvítur skógur

ある寒い冬、アナスタシアは10歳になりました。

でも、朝目を覚ますと誰もいません。

静まり返った家のドアを一つ一つ開けて、呼びかけます。

「みんなどこへ行ったの?」

暖炉は、長い間使われていないかのように冷え切っており、燭台はすっかりくすんでいました。

昨日は、確かにお父さんとお母さんと、少し豪華な夕食を食べたはずです。

アナスタシアは不安になって、窓から外を見てみました。しかし、外はひどい吹雪で、何も見えません。

その時、ノックが3回、ゆっくりと間を置いて鳴りました。

静かな部屋に響くその音は、まるで心臓を叩かれたように感じました。

一瞬、両親かと思いましたが、自分の家にノックなどするはずがありません。

誰もいない家で、心細かったアナスタシアは、ドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開きました。

 

 

「どなたですか?」

扉の隙間から覗くと、吹雪の中に、大きな白いヘラジカが佇んでいました。

アナスタシアは驚きましたが、お化けや、こわい人じゃなかったので少し安心しました。

白いヘラジカは低く鳴くと、おもむろに言いました。

「10歳の誕生日おめでとう。あなたには悪い魔法がかかった。」

吹雪だというのに全く音がなく、白いヘラジカの声がはっきりと聞こえました。

悪い魔法?

不思議と白いヘラジカが喋ったことは、変だと感じませんでした。

「とてもおそろしい魔法。あなたは、死ぬことができなくなった。あなたは、森から出られなくなった。」

「森?ここはおうちよ。」

「本当に?」

気づくと、玄関の白樺の柱には、高い枝が生えており、暖炉は、小さな穴蔵になっていました。

後ずさりすると、雪を踏む音がしました。

「もう二度と、君は死ねないし、絶対に森から出ることはできない。」

「なぜ?誰が魔法をかけたの?」

「あなたは10歳になったから。」

そう言うと、白いヘラジカは、吹雪の中に消えて行きました。

アナスタシアは、どうすることもできず、白いヘラジカの後ろ姿が消えていくのを呆然として眺めていました。

吹雪が収まり、どこまでも続く白樺の森が現れました。

こんな深い白樺の森は見たことがありません。アナスタシアの家の近くの森とは違います。

アナスタシアはしくしくと泣き出してしまいました。

「おうちに帰りたい。」

真冬なのに寒くありません。きっと、死なないということは、寒いことも感じないということなのでしょう。

アナスタシアはとぼとぼと歩きはじめました。

 

 

しばらく歩きました。

どれくらい歩いたか、アナスタシアはわかりません。少しも疲れないのです。

涙はおさまり、ぼんやりしながら歩いていると、上から雪が落ちてきました。

雪をはらって見上げると、枝にフクロウがとまっていました。

フクロウは言いました。

「彷徨える娘、何を思う?」

アナスタシアは言います。

「おうちに帰りたい。」

「母胎には還れない。君は赦されない。

カタストロフは産声と共に。白い息は鉄の拷問。

でもひょっとしたら、君はうちに帰れるかもしれない。」

「本当?」アナスタシアの心は舞い上がりました。

「嘘。」

フクロウは枝を揺らすことなく、静かに飛び去ってしまいました。

 

 

また、長いこと歩きました。

永遠にこの森を彷徨い続けると思うと、気が狂いそうになります。

とうとう頭を抱えてうずくまったアナスタシアを、3匹のオオカミが囲みました。

「肋骨が描く模様を見たい。」

「肌理を裂いて答えが知りたい。」

「きみの心をぐちゃぐちゃにしたい。」

アナスタシアはすくんでしまいました。

「やめて。」

オオカミは、冷たい隙間風のような声で言います。

「傷付けてしまおう。」

「殺してしまおう。」

「食べてしまおう。」

3匹のオオカミは一斉にアナスタシアに飛びかかりました。

鋭い爪が服を裂き、皮膚をめくります。

赤い血が雪を染め、すぐにアナスタシアは動かなくなりました。

 

 

目を覚まし、起き上がると、服はボロボロで、辺りの雪は真っ赤でした。

アナスタシアは死ねないということの意味がわかりました。

吐き気と眩暈を堪えながら、その凄惨な場所から立ち去りました。

歯を食いしばり、震える手で白樺を伝いながら歩きます。

もうこの頃、アナスタシアは殆ど正気を失っていました。

フクロウの言葉が頭の中で繰り返されます。

 

君は赦されない

君は赦されない

君は赦されない

君は赦されない

君は赦されない....

 

「誰か助けて。」

絞り出した声で何度も呟きます。

すると突然森が開け、小さな湖に出ました。

中心の水面が、もったりとうねりました。

そのあと、黒い尾鰭が現れました。

大きなクジラです。

クジラは浅瀬から顔を出し、その大きな口を開きました。

「死ねずに、森を彷徨う娘。愚かで、可哀想。

わたしもこの湖から出られない。」

「あなたも魔法をかけられたの?」

「さあ、もう忘れてしまった。遠い昔のことだ。」

「ずっと何をしているの?」

「祈っている。」

「神さまなんかいないわ。」

「でも、祈るんだ。楽園の庭を想って、祈り続ける。わたしは湖に溶けたいんだ。」

「あなたは嘘をつかない?」

「わたしは決して嘘をつかない。」

「あなたは私を殺さない?」

「わたしは誰も殺さない。」

「わたしを赦してくれる?」

クジラは沈黙してしまいました。

 

アナスタシアは、湖の畔で、今も答えを待っています。