綺譚
くすんだ景色。きっと標高の高い場所にあるんだ。何かを予感させ、絶望させ、安堵させる、無機質とも言える風が吹く。風は何も言わないし、僕らは何も聞けない。それは諦観に近い。
白い柵に囲われた庭。二人分くらいの幅の入り口はちゃちなアーチで飾られている。
玄関まで続く石畳。至る所にあるプランター。灰色の太陽に照らされて育った植物、花々。
白いワンピース、チェック柄のテーブルクロス、僕のTシャツ。これは洗濯物。
雨風に晒された聖母像。
小屋を挟んで向こうの裏庭は草木が生い茂っている。縫うように続く石畳。相対的に閉鎖的な世界。
木製のドアを開け、裏口から入ると、きみが笑顔で言う。
「おかえり。」
ただいま。
「裏庭のルクリア、じきに枯れるわ。」
かなしいね。
きみはいつも僕を待っている。そしてこの庭と、家を守っている。時にコーヒーを淹れ、時にドライフラワーを作る。
僕は好きな本を読んで、タバコを吸って、絵を描いて、ギターを弾いて、標本を眺め、酒を飲み、花を摘んで、寝る。
来るのかもわからない明日に潜るような、沈むような。
どこかで汽笛が鳴る。ああここだ。僕の帰る場所。
振り返ったら消えてしまいそうな胎動。
生まれて死んで。意味は全てここに。ここにあるから。
明日きっと僕は僕でいられるんだろう。僕は僕でしかないから。それがまるでスプーンのような朝でも。
博物の館
「剥製」という「物質」。生きていた過去を君は覚えている?
作り物の目玉で、どこか恨めしげに私たちを見ている。
思ったより大きな肋骨で、生きようと動き続けていた皮膚で、私たちを裁く瞬間をガラス1枚向こうで待ち続けている。
君たちが生きていたこと、忘れないよ。そして、その綺麗な角や、尖った牙で、僕を裁いてください。
「神さま」
迷路のようなこの場所で迷い続ける。剥製になるまで。
国道沿い
いつまでも暮れない太陽と、いつになっても読み終わらない物語と、いくら飲んでも減らないコーヒー。
雨が降っていた。誰かが呟いた。「粘土の空」奏でるように他にも何か言っていたような気がするが、雨の音にかき消されてしまっていた。
小綺麗なカフェでは、あまりぱっとしないBGMが流れていた。客の喧騒は、僕の人生に関係しなさそうな周波数で僕の鼓膜を震わせた。あまりぱっとしない僕は、一番小さいサイズのコーヒーをちびちび飲みながら、本を読んでいた。
ようやく日は暮れ、本を読みきり、コーヒーを飲み終わった。カフェを出た時には雨は止み、かつて鼠色だった空はどこかせいせいしたと言った風な顔を見せていた。さっきまでとは違う風が吹き、さっきまでとは違う音が聞こえる。僕が三時間と二十数分活字と触れ合っている間に、世界がそっくり姿を変えてしまっていた。実際、何かが移り変わるというのはそういうものなのだ。僕は殆ど呆然としながらバイクのアクセルをひねり、前進し、加速した。
黒い春
覚醒の時期、道端の小さな花も、風に凪ぐカーテンも、暖かな斜陽も、たちまち真っ黒に染まった。
黒い洋服を着て、残酷な春の日を闊歩する。ひらひらと黒い花びらが舞う。
そこにあるべき正しさと、失われたこころ。日向と日陰の境。白と黒。愛と無。
綱渡りのように、均衡を保ちつづける人間、僕、私、あなた。
もし間違ってしまっても、黒い春を歩く意味を忘れないで。
どうか、忘れないで。
最後に海を見た日2
簡単なことを忘れていて、息が詰まる。
寒い寒い夜明けの中、秘密の話をしよう。
水平線。群青。乱反射。
鏡のようにふたり手を合わせ、白い息を吐く。確かに僕は存在して、海を見ている。
歩こうか?潜ろうか?泳ごうか?溺れてみようか?
君となら、なんとか辿り着けそうだ。だから大丈夫、なにも心配しないで。
君の綺麗な肌、透けて向こうまで見えてしまいそう。不確か。虚像。
しっかり君の手を握ることにした。
最後に海を見た日。
植物のない世界
正解のないこの物語の中で、僕たちはどうやって幸せになればいいんだろう。
春ゾンビ
冬を過ぎても死に切れなかった可哀想な元人間。
彼らは永遠に春の東京を彷徨い続ける。